しいなゆきこ『お盆におもう』

“死と向き合う 最期の時間て特別やな 看取りの時間てええな 一緒に過ごせて幸せやな としみじみ思う”

友人の言葉をいつも思い出します。

楽しい時だけでなく、死に向かう時間も共に過ごせる有り難さ。

"死に目にあう"という言葉があるけれど、"死に目"って、生きている時間と死ぬ時間の境目や死ぬ瞬間のことではないんです。人は死ぬために生きているわけではなく、生まれてから死ぬまでにどう生きるか、そしてその生きている時間にこそ意味があります。生まれた瞬間や死ぬ瞬間はただ命の境目にすぎず、その瞬間を共有しても、それがその人や命との共有にはならない。生きている時間、命が尽きていく日常の日々を共有することこそが大切にすべき死に目になるのだと思っています。

大昔は家庭の中で命が生まれ、育まれ、そして命が尽きていった。いつも人生の大事な場所には家庭や家族がありました。

時代とともに"最期の場所"が、家庭から違う場所へと変わってきています。医療の進歩による恩恵もたしかにあるけれど、人としての命の尊厳が軽く扱われているケースも増えているとおもうのです。

看護や介護と言うは易く行うは難し。実際には想像以上に大変なもので、経験してみないとわからない苦労や苦悩があります。

きっと大昔の人類に"介護"という概念はなく、家族という集団の暮らしの中で生きる見守りであったり、命の助け合いだったのでしょう。

それを思えば、必要以上に過度な手助けは不要で、家族が生きるために最低限の助け合いが介護のあるべき姿なのだと私は思っています。そして私が手がけている介護もそういった介護を目指しているところ。

今の介護制度はそういった人類本来の意味合いからかけ離れていたり、また、必要以上に医療が入り込んでいるケースも多く、介護によって失われてしまったものがあるように、家族の介護や看護に携わり強く感じます。

でもだからといって、社会制度に否が応でも合わせていこうとも思えない。

人が人として生まれて、人として育ち、人として一生を終える。

自然の循環として、当たり前にそういったことが営めるような社会であってほしいと願います。

2022年盆

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