9月に入りましたね。
9月といえば思い出すのは、3年前に私の最後の祖母が亡くなったことです。私には祖父母が6人いたのですが、子どもの頃はポケットが多くて単純に喜んでいたというゲンキンな孫(笑) 最初に祖父母の死に臨したのは平成10年4月、このひと月に二人の祖父が相次いで亡くなりました。私が27歳の時のことで、当時は2児(3歳と1歳)の母でした。まだそれほど「死」というものに対して特別な想いを持っておらず、冠婚葬祭の一つ程度の意識で、それよりも子育てに必死だったことを覚えています。
そして、最後の祖母が亡くなったのが3年前の9月。意識がなく昏睡状態の祖母をおじ・おばに交じって孫の私の7人で囲み、和気あいあいした漫談会の笑いの中で静かに旅立っていきました。祖母の旅立ちに立ち会った時に感じたのが、「死に様は生き様である」ということ。人の身体の変化、死にゆく人の姿、まわりに与えるもの、などなど、祖母から命をかけた大切な授業を受けたような思いでした。
(過去ブログ:https://wp.me/p9J1io-fo)
「生き様」というのは「命の使いみち」のことで、生きている間に、誰のために、何をしてきたかという、命の時間の使い方のことを指します。成功や失敗の数、名誉の数、肩書きの数…などではなく、時間を何に使ったかというプロセスのことだと私は思うのです。そして「死に様」はその人自身の「生き様」だとも思います。人は、生きてきたように亡くなっていく。どのように生きてきたのかで死に方が決まるのだと。
【何のために生きているのか】
—生きる意味を忘れないでほしい。
ある時期から「生と死」について深く考えるようになりました。そんな経緯もあって、3年前から夫の両親と同居しながら在宅介護をしています。最期は「自宅でいつものように暮らして亡くなる」…昔から人類がそうしてきたように、自然のままにそうありたいと。
高齢化社会といわれるようになり、石を投げれば高齢者に当たるというほど、世の中に高齢者が溢れている。そんな現代は病院や施設で亡くなる人が多い。それ自体を否定も肯定もしません。そうせざるを得ない事情が必ずあると思うから。
実際に在宅で介護をしていると、常に「これは治療が必要か否か⁈」ということを毎日毎日考えています。この考察って実はすごく大事なことなんじゃないかとさえ思っています。
【老化は病気ではない、生理現象である】
自身で考えることもなく医療へ任せてしまうのではなく、これは治療が必要なのか?それとも生理現象なのか?と、考えて判断することってすごく大事で、それが本当の意味で「自分を生きる」ということだと思うのです。医者に任せきり、病院に任せきり、施設に任せきりではなく、自分の人生(家族の人生)は自分自身(家族自身)がハンドルを握るべき。
そして、本人が最期までその人らしく生きることを尊重してあげたい。家族や周りの人のエゴではなく、その人自身が思ったように命の幕を降ろしてあげたいと思うのです。それってものすごい葛藤と闘うことになるけど、本人が求めていない延命処理や医療行為をするより、本人の意思を尊重してあげたい。それが介護や看取りにおいて一番大事なことだと心に置いています。
介護って人の人生や生死そのものなので、そこから教わることや学ぶことが本当に多いです。
つい最近も親しくしている知人が亡くなり、寂しくなりました。でも、私や仲間に「命」や「生き方」についてとても大事なことを教えてくれたような気がします。その方は最期までご自身の意思を通されました。そして看取った方もとても葛藤があったと思います。同じ思いをしているからよくわかるのです。ご自身の意思を貫き通した知人の最期のお顔はとても穏やかで、微笑んでいて、美しかったです。
死に様は生き様なんだなぁと改めて感じました。



