
台風の影響によるスコールのような雨や強い風のお天気でしたが、古民家空間風楽さんでは心地よい風に包まれ、親子で参加する「いのちの授業」が開催されました。
講師は、屠殺場に勤めた経験のある整体あかつき道院長 大森裕介氏。
- 大森氏のHP:seitai-akatsukido.jimdofree.com
- 大森氏のブログ:ameblo.jp/morimori1977-body
屠殺(とさつ)とは、生きた家畜を食肉用に加工すること。屠殺場では“殺す”ではなく、“潰す”という表現を使うという。そして屠殺場においては、加工する側も、潰される側も守られた環境にあるということが、野生におけるそれと異なる点だと。また、家畜も魚と同じように神経締めをするという点、これはなるほどと思った。
日本における屠殺の歴史には“差別”や”偏見”がつきものであること。社会で習う“士・農工商・穢多非人(しのうこうしょうえたひにん)”や”部落”である。その名残りは現代もあり、東京都芝浦にある屠場には今もなお多くの中傷する手紙やハガキ、差別があるという。
屠殺ということ自体が公になったり、学習する機会がなく、TVのドキュメンタリー番組などで屠殺の映像を見たり、本で読んで知る程度に過ぎない。実際に屠殺場で食肉加工を仕事にする人たちの声は、これらの番組や本などとは少し異なっている。番組や本には伝えたいメッセージがあり、どうしても内容が傾いてしまったり、作られた内容になってしまう。実際の屠殺現場はまた違ったものであるというから、一度見学に行き、自分の目で見たもの、自分が感じたことを大事にしていったらいいと思う。私も見学に行ってみたい。
店やスーパーには、パック詰された食肉が色鮮やかに並んでいる。多くの人々は屠殺ということ自体を知らないから、その食肉はどのようにして店に並んでいるのか知られていないし、その裏側には家畜の健康や病気など、知らずにいることが多いことに驚く。安いからという理由で食肉を選んでいるケースが多いと思うが、裏側を知ると食肉の選び方は変わると思う。改めて、今は数少ない街中の精肉店に肉を買いに行こうと思った。
人間が肉を食べるために家畜を飼い、そして屠殺し、命を食べて生きている。肉に限らず私たちは、魚や野菜など、別の命を食べて命を繋いでいる。違う言い方をすれば、命を食べないと生きていくことができないのだ。“食事”をするときに食卓を拭いたり、ととのえるのは、いただく命への礼儀であり、食事の前の「いただきます」は命をいただきますを表すと聞いたことがある。
自然界には循環があり、命のサイクルのなかで私たちは生きている。そういった大きな前提のなかで考えると、命を食べて生きている以上、私たちの命を食べて生きているものへも差し出す覚悟も同時に持つべきだなと感じた。それは他の動物かもしれないし、新型コロナのようなウイルスかもしれない。命はいただくが、私たちの命は差し出さないというのは自然界の循環において矛盾や歪みが生じる。
肉が好きだ、嫌いだ、賛否両論あると思うが、肉に限らず命を食べて生きているという意味をもっと自分のなかに落とし込みたいと思った。機会があれば、ぜひ大森裕介氏の「いのちの授業」を聞いてほしいと思う。




海外の市場では牛は記憶にありませんが、豚・鶏・羊は尾頭付きで売られています。鶏は売られている裏側で締められている国もありました。
「命はいただくのに差し出さない」非常に考えさせられます。
私は戦争や事故のような人為的な「死」以外、自然災害、ウィルス、病気などによるものはある程度「自然淘汰」だと考えています。線引きが難しいですが。
「いのちの授業」機会があれば拝聴したいです。
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