しいなゆきこ『如月と介護と看取り』

今日から二月です。

「如月(きさらぎ)」は、「衣更着」とも言います。寒さが、ぶり返したりする頃で、一度脱いだ衣服を更に着る月ということから由来しているそうです。

最近のブログネタといえば、もっぱら介護の話ばかりで、介護生活にどっぷりハマっています。苦労も多いけど、こんな人生も悪くないな〜と、実は思っているんです。

SNSのタイムラインを見れば、バリバリと活躍する友人の姿、オシャレに着飾った映える写真の数々を目にします。

(ああ、今頃私だって…)と思う日もあれば、(もし、〇〇だったら…)とタラレバを考えてしまう日がないわけではありません。(いいなあ〜)と思うときだって正直あります。

自分の時間を10とした時、今のように在宅介護をせずに仕事を続ける道(仕事10割)と、仕事をセーブしながら在宅介護をする道(仕事2割、介護8割)のどちらも選べました。決めたのは自分です。決め手となったのはふたつのこと。

ひとつめは、どちらの場合も10年後の自分を想像してみたことです。そのときの自分になってみないと、本当のところはわからないのだけれど、想像してみたとき今の道を選んでいた。だから後悔はしていないんです。苦労をすることは嫌いではないので、毎日千本ノックを受けているような気持ちで真っ向からぶつかっていきます。私、結構負けず嫌いで気が強いんでww。

10年後の自分の成長ぶりがすごーく楽しみだったりするんです。

ふたつめは、栄養士として働いたこともあるので施設や病院事情はある程度理解しています。それらの経験があるからこそ、医療に頼りすぎない介護がしたいと思うし、薬に頼りすぎない介護を自分自身の手でしたいと思った。これがふたつめの理由です。日頃から発信している、「ヒト本来の自然な生き方」「自然の摂理に近い生き方」これらを大事にしていきたかったからです。

「施設」という選択肢ももちろんあるけど、今はまだ、本人の意思を尊重してあげたいし、本人の意思を叶えてあげられる段階であること。先々のことはわからないけれど、義母の居場所はこの家にあるから、その居場所で過ごさせてあげたいと思うのです。

そのためには家族の力が必要になる。私はせいぜいその一つにすぎない。歯車のひとつです。

(もし自分が…)と想像してみたこともあります。よく相手の立場だったら??と置き換えて考えるくせがあります。

自分が望まない場所へ置かれたとしたら…、とても切ない気持ちになった。

もし、義母が在宅介護を望まず、施設での介護を望んでいたら、今のこの状況は(切ない)と感じていたと思う。あいにく義母は、施設ではなく自宅での介護を希望しているので今のこの状況になったけれど。

施設が悪いとか、在宅が良いとか、どちらが良い悪いを言っているのではなく、本人の意思を大切にした生き方を選ばせてあげたいと思っています。もちろんお世話をする側の事情や都合もあるので、100%本人の意思とはいかないこともあるけれど、叶うのであれば自分の意思に沿った生き方を誰だってしたいと願うと思います。

命って自分自身のものだから。

「自分の人生は、最期まで選択して良い」本人の意思を尊重して良いと私は思います。

認知症などになると意思決定の確認できなくなってしまうので、元気なうちに意思確認をしておくこと(人生会議)って必要です。

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昨日、「訪問看護と介護」の2020年1月号を、とても優しいイラストの表紙に惹かれて読みました。これ↑、とーっても優しいイラストでしょ?ね〜♡

施設での看取りについて、いくつかの事例が掲載されていたので興味深く読みました。

その中の一つの事例を読んで涙が溢れました。

看取りが悲しくて涙が溢れたのではないんです。

家族みんなが一人を見守り(この事例は「奥様」であり「母親」でした)、それぞれが奮闘し、そしてついに訪れる最期の時を皆で過ごす。そのプロセスがあまりにも温かくて、優しくて、あったかい涙が頬をつたいました。最期まであったかい家族でした。

「老い」というものは、ヒトのありのままの姿であり、自然な経緯であって、そこに現代の延命や医療は必要ない。そんなことを強く感じました。

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